歌は仙台二高(東北大学)寮歌
まだまだ元気です!
活動・コラム
米龍レポート第4の2弾
2024年2月13日
講演依頼は来る、出馬・不出馬の問い合わせは来る、一方不法滞在者は平気で営業を続ける、「この野郎!松本に”必殺仕事人”はいないのか」と探したが、何しろこいつが人の心・事情を忖度できない自分勝手の朴念
history
これまでの歩み
旧東京市に生まれる(昭和20年1月)
東京大空襲を生き延び、9月頃因縁のある大町霊松寺へ疎開
↓
大町小・中・高、二浪の後上京(昭和25年〜昭和46年)
複数の私大に在籍、退学を繰り返す
↓
講談社「劇画ゲンダイ」に勤務(昭和48年)
↓
東京タイムズ社「夕刊ニッポン」国会担当記者(昭和49年)
↓
ビルマ反政府組織<カチン郡開放戦線>に政府組織樹立から従軍(昭和52年)
↓
同時期、自由民主党機関誌『月刊自由民主』専属ルポライター第一号の名刺を持ち執筆開始(昭和53年)
全国の町おこし村おこし、県連訪問、時事問題 を扱い青森県以外全県をまわった。議会100年記 念の『近代日本政界史』連載終了し〈桜を見る 会〉(宮沢喜一內閣〉に招待された平成4年(1992 年)に自民広報部を離れた (満16年)。同時期 に併行して「日経ビジネス」 「にっけいあーと」 「今週の日本」、また『月刊創』などに リージャーナリストとして執筆、編集ディレクターをつとめた
↓
日本ペンクラブ入会、推薦人 五木 寛之氏(昭和50年以来)
↓
後の衆議院議員 塩島 大 の選挙を指名擁立から選挙指導を一人で始めた。(昭和57年)
↓
大阪公立大学大学院(経)と京都大学大学院(法)で修士号取得平成9年
全国の町おこし村おこし、県連訪問、時事問題 を扱い青森県以外全県をまわった。議会100年記 念の『近代日本政界史』連載終了し〈桜を見る 会〉(宮沢喜一內閣〉に招待された平成4年(1992 年)に自民広報部を離れた (満16年)。同時期 に併行して「日経ビジネス」 「にっけいあーと」 「今週の日本」、また『月刊創』などに リージャーナリストとして執筆、編集ディレクターをつとめた
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近代日本政界史(自民党機関紙3年間連載)上梓と共に松本中町キャッツアイにて出版記念会。次期松本市長選出馬の要請を受けたものであったが学者への道を選んだ。(平成13年)
松本深志高と大町高の空前絶後の連携だった
昭和20年1月
旧東京市に生まれる
東京大空襲を生き延び、9月頃因縁のある大町霊松寺へ疎開
昭和20年1月
昭和25年〜昭和46年
大町小・中・高、二浪の後上京
複数の私大に在籍、退学を繰り返す
昭和25年〜昭和46年
昭和48年
講談社「劇画ゲンダイ」に勤務
昭和48年
昭和49年
東京タイムズ社「夕刊ニッポン」国会担当記者
昭和49年
昭和52年
ビルマ反政府組織<カチン郡開放戦線>に政府組織樹立から従軍
昭和52年
昭和53年
同時期、自由民主党機関誌『月刊自由民主』専属ルポライター第一号の名刺を持ち執筆開始
全国の町おこし村おこし、県連訪問、時事問題 を扱い青森県以外全県をまわった。議会100年記 念の『近代日本政界史』連載終了し〈桜を見る 会〉(宮沢喜一內閣〉に招待された平成4年(1992 年)に自民広報部を離れた (満16年)。同時期 に併行して「日経ビジネス」 「にっけいあーと」 「今週の日本」、また『月刊創』などに リージャーナリストとして執筆、編集ディレクターをつとめた
昭和53年
昭和50年以来
日本ペンクラブ入会、推薦人 五木 寛之氏
昭和50年以来
昭和57年
後の衆議院議員 塩島 大 の選挙を指名擁立から選挙指導を一人で始めた。
昭和57年
平成9年
大阪公立大学院(経)と京都大学(法)で修士号取得
全国の町おこし村おこし、県連訪問、時事問題 を扱い青森県以外全県をまわった。議会100年記 念の『近代日本政界史』連載終了し〈桜を見る 会〉(宮沢喜一內閣〉に招待された平成4年(1992 年)に自民広報部を離れた (満16年)。同時期 に併行して「日経ビジネス」 「にっけいあーと」 「今週の日本」、また『月刊創』などに リージャーナリストとして執筆、編集ディレクターをつとめた
平成9年
平成13年
近代日本政界史(自民党機関紙3年間連載)上梓と共に松本中町キャッツアイにて出版記念会。次期松本市長選出馬の要請を受けたものであったが学者への道を選んだ。
松本深志高と大町高の空前絶後の連携だった
平成13年